窮地でも堂々としていた三成
【関ヶ原の戦い】石田三成の死に様 第9回
慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、西軍の実質的な司令官として指揮をとった石田三成。しかし小早川秀秋の裏切りなどもあり敗北。敗軍の将として斬首に処せられたが、豊臣家に忠義を尽くした末の悲劇だった――。
ともあれ、捕縛された三成は田中吉政によって大津の家康の陣所に連行された。家康はその身柄を謀臣の本多正純(ほんだまさずみ)に預けた。正純が三成を軽侮して問うた。「いくさに敗れて自害もしないで捕えられた心境はいかに」と。三成は怒って「徳川殿を討ち滅ぼさずば、豊臣家のためにならぬと思って挙兵したまで。汝(なんじ)は武将の道を知らぬ。腹切るのは端武者(はむしゃ)のすること。源頼朝(みなもとのよりとも)公がいくさに敗れて洞窟に身を潜めて再起した故事を知らぬか」と反論すると、正純は黙ったという。
家康と対面したのは25日である。対面前に、三成が門外で待っていると、福島正則が通りかかり、「汝は無益の乱を起こして、その有様は何事ぞ」と悪罵(あくば)を投げかけると、三成は「おのれを生け捕って縛れなかったのは天運なり」と答えたという。
家康は勝者の余裕か鷹揚(おうよう)にかまえて、「かかることは昔からよくある試しなり。決して恥にはあらず」と声をかけると、三成も「天運の然らしめるところ。早く首を刎はねられよ」と答えた。これには家康も「さすがに大将の器量よ。平宗盛(たいらのむねもり)とは異なる」と感じ入った。宗盛は源平の壇ノ浦(だんのうら)の戦いで往生際が悪く無様(ぶざま)に捕虜となった人物である。(続く)
文/桐野作人(きりの さくじん)
1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。