最期に見せた三成の誇り
【関ヶ原の戦い】石田三成の死に様 第10回
慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、西軍の実質的な司令官として指揮をとった石田三成。しかし小早川秀秋の裏切りなどもあり敗北。敗軍の将として斬首に処せられたが、豊臣家に忠義を尽くした末の悲劇だった――。
家康は上洛すると、三成のほか、小西行長や安国寺恵瓊とともに京都所司代(しょしだい)の奥平信昌(おくだいらのぶまさ)に預けられた。その役宅は現在の二条城東北角あたりだという。
10月1日、三成など3人は車に乗せられ、堀川通りを北上、一条通りから室町通りに入って南下し、六条河原まで引き回された。途中、三成が喉の渇きを訴えて湯を求めたが、役人が「湯は求めがたい。干し柿なら持ち合わせがある」と答えると、三成は「それは痰(たん)の毒だから要らぬ」と告げた。役人が「ただ今首を刎ねられるというのに、毒断ちはおかしい」と笑った。
三成は毅然として「汝らにはもっともの了簡だが、大義を思う者は首を刎ねられるときまで命を惜しむのは何とか本意を達せんと思うからだ」と諭した。
河原では遊行上人(ゆぎょうしょうにん)が3人のために最期の念仏を唱えたが、三成はそれを拒み、従容として首を差し出した。享年41。大義に殉じた最期だった。(了)
文/桐野作人(きりの さくじん)
1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。