「落語家が大変で、サラリーマンが楽」とも限らない
大事なことはすべて 立川談志に教わった第6回
■「どこに志を置くか」
前にも書きましたが、企業は「利潤追求」が根本です。上司と部下の関係は「徒弟制度」ではありませんから、むしろ非合理性を拒否したところで人間関係を成立させないと効率よく稼働しません。いくらカリスマ性のあるワンマン社長のもとに入社したからと言って、儲けにならない「無茶ぶり」はさせないのが原則です。
ましてコンプライアンスが問われる昨今は、パワハラと判断されてマイナスイメージがついたら致命的です。
ところが、二つ目に昇進し、真打ちになって数年以上が経過した今、「落語家が大変で、サラリーマンが楽」という入門当初の考えとは、まるで違う見方をしている自分に気がつきます。
それは、「どこに志を置くか」に決まってくるのです。つまり、サラリーマンを「地位と身分が安定した、失敗さえしなければ定年までいられる」という「消極的存在」ととらえるか、「常に向上心を持ち続け、積極的にアイデアを提案し、必要と思われる資格の取得や自己啓発に余念がない」という「積極的存在」ととらえるかの違いです。
前者には「安定という停滞」が、後者には「不安定という躍動」がつきまといます。これは落語家とて、まったく同じです。
「大好きな師匠に真打ちと認められた」ことを、「ゴール」ととらえるか、「スタート」ととらえるか。現状を「肯定」して安心するか、「否定」して危機感を鼓舞するかです。
こうして突き詰めて考えてみると、決して「サラリーマンが楽で、落語家が苦」だとも、あるいはその逆だとも言えなくなってきます。
また、「サラリーマンが上で、落語家が下」、または、「落語家が上で、サラリーマンが下」でもありません。職業のジャンルに高低はありません。「志の高い落語家」もいれば、「志の低いサラリーマン」もいるという、「内部に上下が存在する」だけの話なのです。
サラリーマンを3年しかやらなかった私です。サラリーマンの世界がすべてわかったうえで入門したわけではないので、偉そうなことは言えません。また、言うつもりもありません。 しかし、ひとつ言えることは「サラリーマン社会だったら、前座修業のような不合理や矛盾には耐えられなかった」ということです。惚れに惚れた師匠談志だったからこそ、耐えられたのです。