「志ん朝」と「談志」。何が違ったのか?
大事なことはすべて 立川談志に教わった第8回
■志ん朝師匠が「リズム」ならば、師匠談志は「理詰め」
師匠談志と並び称された落語家に古今亭志ん朝師匠がいました。同じく名人である父親の志ん生師匠の血を受け継いで、軽快に流れるようなリズムとメロディで世の落語ファンをうならせた方です。私も大好きでした。
余談ですが(つうか、この本はすべて余談ですが)、私が前座の頃、当時大塚にあった癌研病院にボランティアで落語をやりに行ったことがあります。高校時代の友人がそこの医師だった縁で、その企画は実現しました。
あとで志ん朝師匠のお弟子さんにうかがったのですが、その時、ちょうど志ん朝師匠も入院していたのです。事情を知らない看護師さんがこともあろうに「美濃部さん(志ん朝師匠の本名)、よかったら気晴らしにロビーで落語でも聞きに行きませんか」と誘い、「おいおい、ダレるよ」と、志ん朝師匠はさすがに断ったとのこと。「ダレるよ」とは、噺家特有の気持ちを表す言葉で、「お互いが照れるよ、めんどくさいよ」など決まりが悪い気分を表現すると時に使います。
そりゃそうですな。今振り返ると、お互い最悪のニアミスでしたが。
話はそれましたが、ここで二人の名人、「志ん朝と談志の違い」を端的に表現する結論を得ました。すなわち、志ん朝師匠が「リズム」ならば、師匠談志は「理詰め」。
よ、お見事(自分で言うなよ)!
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談慶さんなりの深い分析、そして見事なオチでしたね。落語の奥深さを感じさせてくれました。しかし、こういった見方や考え方というのは、何も芸事の世界だけに限ったことではありません。私たちが社会生活を送る、仕事をしていく上でも役立つはずです。一緒にいる人を、ただ傍観するのではなく「この人はなぜ、いつも他人を惹きつけるのか」、「どうして仕事で成功しているのか」と、様々な角度から分析してみると、魅力や能力がより深くわかるようになるかもしれません。そして、それが人間関係を潤滑に送るうえでの参考にもなるのです。ちょっとだけ試してみませんか。