ノムさんのプロ野球選手になる夢をつないだ、人生の恩師との出会い
「つくづく人には恵まれているなと思いますね」
野村克也さん3月毎日更新 Q4.高校3年間で最も印象に残っている野球部の思い出は何ですか?
野球部廃部の危機。
そのときノムさんが思いついたある作戦とは?
私が通っていた峰山高校がある京都府峰山町(現・京丹後市)は、京都市から100キロ以上離れた田舎町。当時は交通手段が発達していなかったので、都市部の高校との練習試合をセッティングするのも一苦労でした。野球部員はみな素人だったうえ、ちゃんと野球を教えてくれる指導者もいなくて、私たちは自己流で練習するしかなかった。当然、チームが強くなるわけもなく、府大会に出てもいつも1回戦や2回戦であっさりと負け、甲子園出場など夢のまた夢でしたよ。
そんな高校3年間で一番の思い出といえば、廃部の危機を乗り越えたことですかね。あるとき、職員会議で野球部を廃部にするという話が出たんですよ。野球部には12、3人しか部員がいないのにも関わらず、単位が取れない生徒が5、6人もいた。陰でタバコを吸っている生徒が何人もいて、いわば不良集団ですよ。私は吸わなかったですが、勉強は大してできませんでしたからね。そうした学業を疎かにしている連中ばかりの野球部は潰してしまえということだったようです。その先頭に立っていたのが清水義一先生でした。
ただ、私としては、いくら弱小とはいえ、野球部がなくなってしまうのは困る。プロ野球選手になるという夢が潰えてしまうわけですから。そこで、野球部を守るために、ある作戦を思いついたんです。
清水先生はお寺のお坊さんでもあったんですが、スポーツにはまったく興味がありませんでした。当然、野球のことなど何も知りません。でも、小学生の2人の息子さんが野球が大好きだった。そこに目を付けて声を掛けたんですよ。「今度、峰山高校野球部の練習試合があるから応援しに来いよ。そのとき、お父さんも絶対に連れてくるんだぞ」と。そして、実際に子どもたちが清水先生を試合会場に連れてきてくれたんです。
今と比べると、当時は娯楽が少なかったですし、スポーツの中でも野球人気が際立っていた時代。試合当日はグラウンドの周りに町民がたくさん集まってきてね、ずっと声援を送ってくれるんですよ。その熱狂ぶりを目の当たりにして、清水先生も参っちゃったんでしょうね。「野球ってすごいな。こんなに人気があるのか」と興味を持ってくれて。私としても、子どもたちから誘われれば一緒に来るだろうし、とにかく野球を見てもらえば楽しさをわかってもらえると思っていましたからね。その後すぐに、「野球部の部長をやってくれませんか。野球経験がなくたって問題ないですよ」とお願いし、快諾してくれたことによって野球部を守ることができたんです。
そんな清水先生は我が人生の恩師と言える方なんですが、今振り返っても、人生の節目節目でいろいろな方々に助けてもらってきました。つくづく人には恵まれているなと思いますね。