ルーズヴェルト大統領、四つの大罪
保守派から見たルーズヴェルト像 インテリジェンス・ヒストリー④
第三に、外交政策の失敗です。
大統領一期目の最初の年にソ連を国家承認し、第二次世界大戦に参戦してからは同盟国としてソ連に膨大な援助を与えて肥え太らせました。中国では中国国民党の蔣介石(しょうかいせき)政権から中国共産党の毛沢東(もうたくとう)支援に乗り換えて、戦後のソ連と中国共産党の台頭を招きました。
しかもそのような外交を行うにあたって、連邦議会を無視し、国務省すら通さない密室外交の手法も使われました。その最たるものが、一九四五年、ソ連領のヤルタで行われた、英米ソ三か国首脳によるヤルタ会談です。ヤルタ会談でソ連は東欧諸国を手に入れ、おびただしい人々が鉄のカーテンの向こうで圧政と暴力に苦しむことになりました。
また、ルーズヴェルトがヤルタ会談で署名したアジア協定は、ソ連がほぼノーコストで中国大陸・南樺太(からふと)・千島列島を手にすることを認めたものでしたが、連邦議会の承認を得ることなく秘密裏に締結され、国民には一切知らされませんでした。これは、民主主義国家の基本原則を踏みにじる行為です。今なら、「大統領による独裁政治を許すな」と抗議デモが起こってもおかしくないほどの暴挙でした。
このヤルタ密約の存在とその内容が明らかになったのは終戦の翌年のことです。
第二次世界大戦で、アメリカは軍事的には勝ちました。ヨーロッパではナチス・ドイツを降伏させ、アジアでは大日本帝国を倒しました。
しかし、ヨーロッパの半分はソ連の勢力圏になり、アジアでは共産主義の嵐が吹き荒れて、平和を取り戻すどころか朝鮮戦争とベトナム戦争でさんざん苦戦させられる羽目になっていたのです。
朝鮮戦争もベトナム戦争も、第二次世界大戦の結果、満洲・中国・北朝鮮がそっくりソ連のスターリンの手に落ちたからこそ起きた戦争です。
前述したように、アメリカのアジア政策は、強い日本がアジアを安定させるとする「ストロング・ジャパン派」と、日本を抑え込み、弱らせることでアジアが平和になるとする「ウィーク・ジャパン派」が対立していました。
ルーズヴェルトは「日本を押さえつけて弱くすればアジアは平和になる」ウィーク・ジャパン政策を押し進めました。徹底した対日強硬策で日本に圧力を加え、ついには戦争で降伏させました。
この政策が正しかったのならアジアは平和になったはずですが、実際にはアジアでは共産主義の圧政が広がり、戦争も続発したのですから、「ルーズヴェルトの外交政策は誤っていた」と批判されるのは当然でしょう。